ふつうにくらせるしあわせ
またシブヤ大学のイベントにいった。
今回は「地域福祉×都市」というテーマの授業だった。
福祉について普段考えたことがないし、知識もないのだけども
なんか最近気になってきた感じがしていたので
これもなんかのきっかけになるだろうという安易な気持ちで参加してみた。
そしたら思いがけず非常に面白かった。
というかかなり濃い内容だった気がする。
猿渡さんという方と中野さんという方の2名がそれぞれの事例から福祉について話してくれたのだが、お二人とも医療の現場に関わる方で、そこからソーシャルネットワークのあり方を提案し実践してるようだ。
福祉を考えることは、(ふ)つうに(く)らせる(し)あわせ、を考えることなのだということが伝わり、なんか感動というか、深い感慨を覚えた。
社会の前提が変わってきている日本社会において、いかにして「ふくし」を成立させるかは、とても身近な問題として考えていくテーマだなと思った。
そして現代社会の負の側面にただ嘆き無力感に浸ったり目を背けたり先伸ばしにしがちな自分を反省した。医療や福祉の現場で活躍されているお二人にとっては目の前の問題であり、そこに積極的に関わりポジティブに状況を変えている姿に、なにか勇気付けられる気持ちにもなった。
今日聞いたような福祉的な価値観が目に見える形で広がっていくといいなあ。
巻き込む
雨と台風が去ったら快晴と共に暑さも戻ってきた。
秋晴れというには暑い。
おとといの土曜日はシブヤ大学のイベントにいった。
「クリエイティブ」というテーマで博報堂ケトルの大木さんという方の話を聞いて、最後ワークショップ的なセッションが少しあった。
大木さんは1982年生まれといういことで、その世代感がけっこう出ていた。
Macbookの天面にシールを貼る。スポーツミックスなファッション。シブヤ大学での活動などソーシャルに片足突っ込む感じ等。この世代を境にその前と後で価値観のギャップがあるように思う。80年代生まれというのはそのつなぎ世代だなとなんとなく思っているのだが、80年代の前半と後半でもやはり違うものだなという気もしてきた。まあ類型化は安易なレッテルを貼ることが目的ではなく比較検討するための便宜的な手段だということをひとまずは肝に命じておきたい。
大木さんの話(というか過去の仕事の紹介)は「巻き込む」というくくりで進行していき、「対話」が大事ということで締め括られた。
話を聞いて頭に浮かんだことをひとまずメモ
・ナチスの宣伝広告、近代の総力戦
・階層化、ヒップホップ、セグメント、動物化するポストモダン
・自己正当化戦国時代にあらめて対話する意味、いかに意見を持つか<いかにレペゼンするか
雑記
今日は友達と乃木坂のウエストでお茶をした。
そのあと昨日オープンした高島屋の新館を見に行って
丸善をぶらぶらして帰った。
ウエストは初めていったのだが、なるほどマダムが好んでいく所だった。
おめでたの友達と仕事のことや世の中についてあれこれ話ながら
私はボルシチとコーヒー、ともだちはサンドイッチとハーブティーを
そしてスフレをシェアした。
友達のサンドイッチにレモン絞り器がついてきてそれでレモンをしぼるのだが、それがなんとも良いプロダクトだった。
会話の子細は省くが、大まかにいうと、人権をはじめとする西洋近代主義とそのなれの果ての昨今の個人主義を憂いながら、それでも小さく自分の考える「よい生活」をできるように、なるべく誠実に、なるべく稼いでいきたいというような内容だ。
ひとしきり軽食と会話を楽しんでウエストをあとにし
植本一子さんの展示を見に行く。
昨日オープンということもあって平日にも関わらず結構込み合っていた。
若めの層をターゲットにしたような食品・雑貨・ファッションのお店が入っていて、それを年配の方々が物珍しそうに物色して楽しんでいた。
ここ数年、百貨店も頑張っているようだが、なんだかどこも同じようなお店がはいっているような気がする。
それにしても日本人の食に対する興味関心は衰えておらず、デリカッセンは盛況な様子だ。近い将来、アマゾンの運営するデリカッセンが出てきそうだが、それまでは昨今のようなデリカッセン状況は引き続きつづくだろうと感じている。
丸善で「GAFA」を立ち読み。最近、本屋に寄っては少しずつ読み進めている。
そのあと2階3階の平積みなどを見て歩いた。
会計関連の本が結構増えている。人気なのだろう。
ディープラーニングやプログラミングの本もどんどん増えていて、否が応でも気になる。
去年はビジネスデザインなど経営とデザインをテーマにしたものがブームになっていたが今やそれも下火な感がある。ビジネスモデルやイノベーションに対する疲れのような感じが出てきているのか。
帰り途中に飯田橋駅メトロ構内のスタバにてコーヒーを補充したが、
なぜスタバのクッキーとかはあそこまで美味しくないのか不思議に思った。
うーん、雨がやまないので今日はジョギングはお休み。
傘
東京駅から有楽町方面に傘をさしながら歩いていた私はふと思った。
「なんと心もとないことよ、、!」
今までそんなに意識してなかったんだけど、傘をもつ手元がすごい不安定。
雨風を受け小刻みに揺れる手元。
この手元の心もとなさなは厄介なことに、ボディーブローのようにじわじわと私の気持ちを不安にさせている。
そのことに今まで気がつかなかった。
そのことに気がつくと、ではなぜ傘の柄はどれもこれもこんな感じなのかという疑問がすぐに湧いてくる。
というか「手元の安心感」という切り口で改めて傘をみてみると、もっとのびしろがあるような気がしてきた。
テニスでも野球でも、強い打球を打とうと思ったら片手ではなく両手でいく。
同じように傘も片手で踏ん張るより両手を使うのが利にかなっているように思われる。
それなのに傘をさすときは片手。断固片手。という固定観念が実はあるのではないか。
両手をつかうときといえば台風とか強風がすごくてもう体ごともっていかれそうになってはじめて両手をつかう。極端だ。
そういうんじゃなくて、ちょっと手元がぐらついたら、そっともう一方の手を添える。
そんな感じの傘のさし方ができたら、なんかいい感じがする。
傘にそっと手を添える場所あってもいいんじゃないでしょうか。