あれくす雑記帳

無意識の前提からはみ出すものを逃さない。目的効果実証の論理の歯車がほころんだとき安堵する。それが私の報酬系。

東京駅から有楽町方面に傘をさしながら歩いていた私はふと思った。

 

「なんと心もとないことよ、、!」

 

今までそんなに意識してなかったんだけど、傘をもつ手元がすごい不安定。

雨風を受け小刻みに揺れる手元。

この手元の心もとなさなは厄介なことに、ボディーブローのようにじわじわと私の気持ちを不安にさせている。

そのことに今まで気がつかなかった。

 

そのことに気がつくと、ではなぜ傘の柄はどれもこれもこんな感じなのかという疑問がすぐに湧いてくる。

というか「手元の安心感」という切り口で改めて傘をみてみると、もっとのびしろがあるような気がしてきた。

 

テニスでも野球でも、強い打球を打とうと思ったら片手ではなく両手でいく。

同じように傘も片手で踏ん張るより両手を使うのが利にかなっているように思われる。

それなのに傘をさすときは片手。断固片手。という固定観念が実はあるのではないか。

両手をつかうときといえば台風とか強風がすごくてもう体ごともっていかれそうになってはじめて両手をつかう。極端だ。

 

そういうんじゃなくて、ちょっと手元がぐらついたら、そっともう一方の手を添える。

そんな感じの傘のさし方ができたら、なんかいい感じがする。

 

傘にそっと手を添える場所あってもいいんじゃないでしょうか。